常磐線 1枚の写真から vol.5


※鉄道博物館公式Facebookにて2020年7月1日に投稿された内容となります。

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仮設テントの下 外套を着た人々が立ったり 地面に新聞を敷いて座ったりしています。

これは今から57年前、1963(昭和38)年12月28日の上野駅の光景です。故郷へ向かう夜行列車の発車を駅の外に建てられた大きなテントの下で待っているのです。真冬に暖房もなく、冷たい地面に座って何時間も列車の発車を待たねばならず、かなり辛い待ち時間ですが、久々に帰る故郷への思いもあってか、どの顔も明るく楽しげです。  昭和30~40年代にかけて、地方から職を求めて上京した人々で東京圏の人口が急増していきまた。年末年始や旧盆の時期にはこうした地方出身者は故郷へと帰省するようになり、「帰省ラッシュ」と呼ばれる混雑が発生するようになります。高速道路もなく航空機は高嶺の花の時代、長距離の国内旅行はもっぱら国鉄が担い、特に東京の北の玄関口である上野駅は、北海道、東北、上信越、北陸方面へ向かう帰省客やスキー、温泉客などで今では考えられないような混雑を見せていたのです。  上野駅ではあまりの混雑のため、列車待ちの乗客を構内に収容することができず、1959(昭和34)年12月から正面玄関、浅草口、公園口、東京文化会館前の4ヶ所に仮設のテント村を設置し、急増する旅客の夜行列車待ちに利用するようになりました。それ以後、毎年上野駅のテント村は設営され、季節の風物詩となっていきました。翌年の暮れからは、東北本線、奥羽本線、磐越西線の夜行列車を品川駅始発として、上野駅への旅客集中を分散させようとし、さらには同年12月29~31日の間、18時30分以降発の下り東北本線、高崎線の普通列車を大宮駅発に変更し、上野18時着以降の上り列車についても大宮ないしは赤羽駅で打ち切るという措置が取られました。これらの対応が必要となるほど、上野駅発の長距離夜行列車の混雑は激しかったのです。  1964(昭和39)年夏の上野駅は例年にないほどの混雑を見せていました。折からのレジャーブームの到来で、帰省客に加えて旅行客が急増していたのです。そこで当時の駅長の発案で、8月11~13日の間、乗客にワッペンが配布されることになりました。正面口、公園口、東京文化会館前のテント村に並んだ乗客は、方面別、列車別に行列し、あらかじめ改札を受けたうえで列車名、行先、発車時刻を縫い込んだワッペンを受け取り、これを身につけた乗客だけがホームへと案内される方式としたのです。このワッペン方式による乗客整理は好評で、以後上野駅の名物となっていきます。  このようにあの手この手を使って、年末には約100万人もの旅客に対応した上野駅の帰省客輸送でしたが、昭和40年代後半になると石油ショックや不況のためかげりを見せ始め、自家用車の普及や航空機利用の一般化によってこうした激しい混雑は見られなくなり、名物だったテント村も1975(昭和50)年暮れを最後にその姿を消しました。  かつて帰省客で大混雑を見せた上野駅。テント村はそうした混雑を象徴するものでした。高度経済成長の本格化とともに姿を現し、その終焉とともに姿を消したという見方もでき、まさに戦後日本の歩みとともにあった存在といえそうです。