常磐線History vol.2


※鉄道博物館公式Facebookにて2020年4月12日に投稿された内容となります。

※該当記事のリンクは下部に記載。



前回ご紹介した常磐線開通までの歩み、 その開通までには さまざまなルートが検討されました。


 なかでも東京方の起点が田端に決まるまでには、埼玉県の川口で分岐する案が有力でした。今回展示する資料の中にそれを示すものがあります。当館で所蔵する『鉄道省文書』のうち日本鉄道に関する簿冊に収められた「友部線仮免許関係書」という文書に添付された「埼玉県川口近傍ヨリ茨城県下石岡ヲ経テ水戸線ヘ連絡スル鉄道略図」という図面(実測図)です(1893年作成)。  日本鉄道が友部線(土浦線)建設に際してのルートを検討しましたが、すでに開業していた上野~川口間の既設線をそのまま使用して北上し、川口で本線から分かれ鳩ケ谷・草加・流山近傍をへて小金に至り、そこからはほぼ現在と同じルートで取手・土浦・石岡を経由し、内原で水戸線に合流するという計画を立てていました。

 なぜ、今から考えると大きく北へ迂回するルートを検討したのでしょうか?それは土浦線建設に際して荒川橋梁を架けることを避けようとしたためと思われます。当時の橋梁はその材料(鋼材)の多くを輸入に頼っていたため、長大な橋を架けるには多大な費用が必要となりました。そこですでに架橋されている既設線の荒川橋梁を使用して川口から東へと向かえば、橋梁の建設費を抑えることができるため、このようなルートで申請を出したものと思われます。

 しかし、将来的に幹線鉄道として機能させるためには上野付近から直接水戸へ向かう方が有利であり、さらに隅田川の舟運と連絡する貨物駅の設置計画と連動させるため、田端で分岐し南千住付近に設ける貨物駅の北方で隅田川を渡り、千住から水戸街道に沿って友部へと向かうルートで建設されることになりました。ここに川口分岐案は廃案となりました。

 川口で分岐されるルートで建設されていたら、その後の常磐線はどのような歩みを見せたのか、歴史のifを想像してみるのも一興ですね。