※鉄道博物館公式Facebookにて2020年4月24日に投稿された内容となります。
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全通当初は沿線で採掘される石炭を 東京へ運ぶことが使命だった常磐線 やがて新たな役割が加わります。
多数の石炭列車を運行するため、常磐線は大正時代から路線の複線化が進み、1925年には早くも平(現・いわき)までの複線化が実現しています。また、途中に峻険な山岳地帯もなく最急勾配は10‰(1000m進んで10m上下する勾配)と、勾配に弱い蒸気機関車が主力の時代には恵まれた線形の路線でした。これに対して東北本線は複線化の進展が遅く、福島県内外では多くの急勾配区間があり、速度・輸送力ともに幹線としての機能を十分に果たせない状態にありました。
こうした線形のよさ、輸送力の大きさを生かして、上野発の北海道連絡を役割とした優等列車は常磐線経由で運転されるようになり、ここに東北本線のバイパスルートとしての役割が加わったわけです。戦後の優等列車の増発に際しても常磐線経由がメインとなり、1958年に運転を開始した東京以北で初の特急列車「はつかり」も当然のごとく常磐線経由で運転され、そのほか多くの急行列車が常磐線経由で運転されました。
しかし、1968年10月に東北本線の全線電化・複線化が完成すると、平以北に単線区間が残る常磐線よりも、輸送力が大きく強化された東北本線経由がメインルートとなり、多くの特急・急行列車が同線経由となりました。以後も「ゆうづる」をはじめとする夜行列車に関しては常磐線経由がメインでしたが、1982年11月の東北新幹線開業によって北海道連絡・北東北への輸送は東北新幹線が担うようになり、東北本線のバイパスルートとしての役割は失われていきました。
このように常磐線の華やかな時代は長くは続きませんでしたが、初の気動車特急となった「はつかり」や、最後の蒸気機関車牽引特急となった「ゆうづる」など数多くのスターが彩を添えたのです。
その後は、線内の都市間輸送、首都圏の通勤通学輸送、仙台圏の近郊輸送が主流へと変化していきます。
写真:大津港~勿来間を行く気動車特急「はつかり」 1961年頃