常磐線History vol.6


※鉄道博物館公式Facebookにて2020年5月6日に投稿された内容となります。

※該当記事のリンクは下部に記載。



昭和30年代になると 常磐線上野口では 通勤通学需要が急激に高まります。


 東京北西部の宅地化は他の地域に比べるとゆっくりしたものでしたが、高度経済成長が始まると常磐線沿線には公団の団地や公営住宅が多数建設されたこともあり、急激に利用者が増加しだしました。

 東京西部のように近接して並行する私鉄路線もないため、通勤通学客が集中し、今では想像を絶するような混雑ぶりを見せ、特に東武伊勢崎線、営団地下鉄日比谷線との接続駅となった北千住や、山手線・京浜東北線との乗換駅の日暮里には多くの旅客が集中し、乗り換えが危険な状況となっていきました。

 こうしたなか、1962年5月には三河島駅付近で多重衝突事故が発生して多数の死傷者が出るなど、さまざまな面で常磐線の過密ぶりが表面化し、大きな社会的問題となっていったのです。

 国鉄もこうした常磐線混雑の対策として、車両への保安装置の搭載や、新性能電車・103系の大量投入を実施し、さらに混雑の抜本的解決策として綾瀬~我孫子間を複々線化(北千住~綾瀬間は営団施工)して、営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線と相互直通運転を行って都心部への直通ルートを確保しようとしました。

 これは国鉄が首都圏の通勤輸送対策として計画した、都心部から放射状に伸びる東海道・横須賀、中央、東北・高崎、常磐、総武の五方面ごとに複々線化を主体とする、抜本的な輸送力増強計画である「通勤五方面作戦」の一環として実施したもので、大規模な投資をともなうため、都心部へは地下鉄との相互乗り入れを行って少しでも線増費用を減額しようとしたものでした。

 そして1971(同46)年4月20日の綾瀬~我孫子間の複々線が開業し、千代田線との相互直通運転が開始されます。複々線は快速線と緩行線(各駅停車)の線路別複々線となり、快速線は上野へ、緩行線は綾瀬から千代田線へ乗り入れて霞ヶ関へと向かう系統としましたが、上野方面への快速線よりも、都心部へ直通する緩行線に旅客が集中するとの予測から、快速線の2.2倍の輸送力を緩行線に振り向けました。しかし、中途半端な時期の開業に加え、国鉄と営団の運賃が合算され高額になる緩行線に旅客は転移せず、それまでの乗車習慣から輸送力の少ない快速線に旅客が集中して、初日から大混乱に陥ってしまいました。

 加えて当時の営団労組は、国鉄以上にストライキを頻繁に実施し、緩行線しか停車しない綾瀬、亀有、金町駅の利用者は営団がストを打つと、いったん都心とは逆の松戸へ向かい、快速に乗車しなければ通勤できない事態になってしまったのです。急きょダイヤを修正して、快速線の列車を増発するなどの対策が取られましたが、国鉄や営団側の論理だけで建設を進めた常磐線の線増工事は、利用者側の視点が欠落していたために“迷惑乗り入れ”と呼ばれるようになってしまいました。

 こうして常磐線の通勤路線としての輸送力は大幅に向上しましたが、設備面や運用面では多くの課題を残し、のちの都市部での線増計画にさまざまな教訓を残すことになりました。