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常磐線History vol.7


※鉄道博物館公式Facebookにて2020年5月16日に投稿された内容となります。

※該当記事のリンクは下部に記載。


 

1985(昭和60)年3月14日の 国鉄の時刻大改正は 常磐線にとって大きな転機となりました。


 東北本線の全線電化・複線化後、バイパスルートとしての役割の多くを同線に譲った常磐線は、昼行の特急・急行列車については線内の都市間連絡輸送重視へとシフトしていきます。まずは急行「ときわ」を増発のうえ、他線に先駆けて運転時刻を規格化し、利便性を向上させます。さらに1969(昭和44)年10月から上野~平(現・いわき)間で運転を開始した気動車特急「ひたち」が、1972(昭和47)年10月に電車化されたうえで5往復に増発され、L特急に指定されました。

 昭和50年代に入ると、一層の高速化とサービスアップをはかるため、「ときわ」を格上げする形で「ひたち」が増発されていきました。そして1985(昭和60)年3月のダイヤ改正では急行・特急を一本化して「ときわ」を廃止、すべて「ひたち」に統一され、下り24本、上り23本にまで成長しました。常磐線には新幹線建設の計画はなく、首都圏では都市間連絡の在来線として中央本線と並ぶ重要路線と位置付けられ、高速道路延伸への対抗策として、特急が大増発されることになったのです。 さらに普通列車(中距離電車)についても、この年3月17日から9月16日まで沿線の筑波研究学園都市で国際科学技術博覧会(つくば科学万博)が開催されるのに伴い、編成両数を15両として輸送力を増強しています。また、会場に近接して臨時駅・万博中央を設置し、博覧会の観客輸送を一手に引き受けることになり、この際401系・403系・415系は車体塗色をローズレッドから、アイボリーホワイトに青帯という軽快なものに変更してイメージを一新し、「エキスポライナー」に投入されました。

 一方でローカル輸送に残っていた客車・気動車列車についても、急行の廃止によって捻出された急行形電車を転用して電車化し、近代化がはかられました。このように、つくば科学万博開催をひとつの契機として常磐線は大きく姿を変え、首都圏の通勤通学輸送の機能と土浦、水戸、日立、平(現・いわき)といった地方拠点都市相互と東京を結びつける都市間連絡機能、仙台地区の近郊輸送を主体とする路線へと変容していったのです。



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